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   <title>GEODESIQUE 祐二の書斎</title>
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   <subtitle>読書と盆栽と犬との生活
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   <title>第28回　――キーツの耳はウサギ？の耳　―ようこそ不思議さの中へ </title>
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   <published>2007-11-21T05:14:09Z</published>
   <updated>2008-03-04T06:38:22Z</updated>
   
   <summary>物質が意識を持つという事をどう記述すればいいか　その方法をぼくたちは知らないが ...</summary>
   <author>
      <name>小島祐二</name>
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      <![CDATA[物質が意識を持つという事をどう記述すればいいか　その方法をぼくたちは知らないが 

意識という事すらよく解らないのだから 

解っている事言えば　 

始まりも知り得なければ　また終わりも知り得ないだろう　という事だけだと思う 

リアルなこの感覚の意識からいうと　なんと不思議な事だろうか 

そういった意味では　脊椎動物には非常に連帯感を感じるし 

同じ哺乳類にはさほど違いを見いだせない 

犬たちと暮らして思う事は　 

感覚の蓄積の記憶から引き出す意味という作用の構築の多さと 

複雑さに関しての傲慢な思いだけのような気がする 

意味とは作用であり　作用は構築されて成立するものであり　 

それは事化されることで　物象化される 

事化ということは言語化と同義であり　物象化とは語られることである 

そして語ろうとする意思は　想像と抽象において誤謬の対象となる 

物が意識を持ち意思を構築して物を作り出すことの　なんと不思議なことか 

この不思議さは　フーコーの言葉を借りれば　 

“賭けてもいい　砂に描いた顔のように消え去る” 

  

ぼくたちは犬たちと暮らし始めてから６年余りになる 

決して長くはない 

その間に４頭の子たちと暮らし　 2 頭の子たちが旅立っていった 

未経験で超大型の生まれたてのボルゾイと暮らし　 

ぼくたちの年を遥かに超えた老犬と暮らし 

そして今　青年期から犬の黄金期にさしかかる子をレスキュー団体から引き取った 

考えてみれば無謀な選択で　全てがはじめてのきらきらとした世界と 

一転して　安らぎ中で静かに老いていく姿を見るという　 

そして　今真ん中を埋め合わせているという　変な暮らし方ではある 

というのも最初の子が約束を破って　さっさと神様の所へ帰って行ったからだ 

今でも　よく一人で逝けたものだと思うし　よくぼくたちの所へ来たものだと思う 

ぼくたちの方が　彼と神様との約束を判らなかっただけなのかもしれない 

  

最初の子には母犬のティグラの gula をとって guesclin ゲクランと名付けた 

母親に似て優しい美しい犬に育った　 

ローマンノーズの鼻梁からアーモンドの目尻　細く隆起する眼孔と額　後頭の尖り 

それから口元から耳　その付け根から首筋を　 

とくに風上に面をかざして空気の匂いをとる姿を　 

また　深い胸から後へと切れ上がる内股　背から大腿にかかるアーチ　 

細い脚の躍動を　ぼくたちは愛した 

ゲクランがそういうエアーセントをする時は　ぼくたちはそーぅと忍び足になった 

繁殖を引退したティグラとそのペアの父犬を引き取るのが　はじめからの夢だった 

ゲクランとは思いもよらず２年しか暮らせなかった 

新しい子犬を　と言うブリーダーを説得して　父犬をキーツと名を変えて迎えた 

残念な事にティグラは既にこの世にはいなかった 

  

キーツは９歳を越えて　海の日にやってきた 

涼しくなる秋まで待とうかとも思ったが　 

初めて会った時はジャンプして迎え　帰るな行くな　とすり寄ってきた若々しさが　 

犬舍の内という運命を淡々と受け入れている姿の変わりように耐えられなかった 

その年の７月　犬舍の坂を下って千曲川に散歩に出かけた 

思った以上に脚が弱っている事に気づいて　歩みを止め木陰を見つけ涼をとって 

ぼくたちは　キーツの眼差しに未来をみた 

蜩の鳴き始める静かな昼下がりだった　 

  

それからキーツは４年間ぼくに眼差しを送り続けた 

昨年から急に老いが目につくようになるつれ　ぼくの方は忙しくなった 

出かけるぼくを目で送り　帰ってくると　 

真っ先にじたばたと　撫でてもらいに顔を寄せてきた 

気がつくと　遊んでいるときのように耳を立てるようになっていた 

微熱が続き目脂が多くなって　取りきれなくなった時　そのあくる日を告げた 

それが　キーツとの約束だった　 

そして　最後までその足音を聞いて　耳を下ろすことはなかった 

膝の上で痰が絡まる弱い呼吸が途絶え　ほっと脱力して各々顔を見合わせた時 

抱いている手を持ち上げるように　顔を近づけて２度深く呼吸をした 

最後までキーツらしく　ずっといつまでも一緒にいたいのだと　 

嬉しく思ったが　何かしっくりこないものを感じながら 

なぜか“犬の十戒”の出典が気になったりして　日々が過ぎていった 

あとで　やはりそれが思い違いである事を知った 

ある日疲れて午睡をとっていると　ゲクランに教えられた 

  

キーツがいなくなった悲しみは　ひと月　ふた月と 

日を追って増してくるように思う 

今こうして　ヴィヨンやイプーを見ていると　 

なにかこう　華やかなバラ色に輝いていたゲクランとの日々が突然終わり 

（ゲクランと暮らした日々は別に書いた） 

凛として老いに向かい合ったキーツと静かに暮らした日々が　深々と懐かしくありがたい 

  

そして　キーツのいない事が不思議であり　キーツと出会った事が不思議であり 

キーツと暮らした事が不思議で　また　キーツが無くなってしまった事が不思議だ 

そして　この大切な記憶がいつかは無くなってしまう事が　不思議だ 

この不思議さに反転しそうになると　 mac に取り込んだスライドを見る 

そして　ヴィヨンとイプーと一緒に帰る時にも消さないで　そのままにしておく 

ふたりに一日の終わりの匂い取りと排泄をさせながら 

誰もいないぼくの部屋中に　記憶の光の粒子が音符に攪拌され混じりあって 

グクランとキーツがふりおりて形になっていくのを感じる 

ふたりが鼻先をこちらに向け　遠くから眼差しを送る姿を想い描く 

  

  

2007/11/21 

小島祐二



<a href="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/images/dogs.jpg"><img alt="dogs.jpg" src="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/images/dogs-thumb.jpg" width="500" height="331" /></a>

―亡き王女のためのパヴァーヌ - 中川昌三 - スティル・エコー Ⅱ ー 

―そのあくる日 ( ゲーラ )- 大萩康司 - シェロ― 

  

犬の十戒 

１． My life is likely to last ten to fifteen years ． 

私の一生は１０から１５年くらいしかありません。 

Any separation from you will painful for me. 

ほんのわずかな時間でもあなたと離れていることは辛いのです。 

Remember that before you buy me ． 

私のことを飼う前にどうかそのことを考えてください。 

  

２． Give me time to understand what you want of me ． 

私が「あなたが私に望んでいること」を理解できるようになるまで 

時間が必要です。 

  

３． Place your trust in me- it's crucial to my Well-being. 

私を信頼して下さい。それだけで私は幸せです。 

  

４． Don't be angry at me for long and don't lock me up as punishment. 

私を長時間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないで下さい。 

You have your work ， your entertainment and your friends ． 

あなたには仕事や楽しみがありますし、友達だっているでしょう。 

I have only you ． 

でも、私にはあなただけしかいないのです。 

  

５． Talk to me sometimes ． 

時には私に話しかけて下さい。 

Even if I don't understand your words, I understand your voice 

when it's speaking to me ． 

たとえあなたの言葉そのものはわからなくても、私に話しかけて 

いるあなたの声で理解しています。 

  

６． Be aware that however you treat me, I'll never forget it. 

あなたが私のことをどんな風に扱っているのか気づいて下さい。 

私はそのことを決して忘れません。 

  

７． Remember before you hit me that l have teeth that could easily 

crush the bones of your hand 

but that I choose not to bite you ． 

私を叩く前に思い出して下さい。私にはあなたの手の骨を簡単に 

噛み砕くことができる歯があるけれど、私はあなたを噛まないように 

しているということを。 

  

８． Before you scold me for being uncooperative ， obstinate or lazy ， 

ask yourself if something might be bothering me. 

私のことを言うことをきかない、頑固だ、怠け者だとしかる前に 

私がそうなる原因が何かないかとあなた自身考えてみて下さい。 

Perhaps I'm not getting the right food ， or I've been out in the sun too long 

or my heart is getting old and weak ． 

適切な食餌をあげなかったのでは？日中太陽が照りつけている外に 

長時間放置していたのかも？ 

心臓が年をとるにつれて弱ってはいないだろうか？などと。 

  

９． Take care of me when I get old ; you, too, will grow old 

私が年をとってもどうか世話をして下さい。あなたも 

同じように年をとるのです。 

  

１０． Go with me on difficult journeys ． 

最期の旅立ちの時には、そばにいて私を見送ってください。 

Never say, "I can't bear to watch it ." or " Let it happen in my absence." 

「見ているのがつらいから」とか「私のいないところで逝かせてあげて」 

なんて言わないでほしいのです。 

Everything is easier for me if you are there ． 

あなたがそばにいてくれるだけで、 

私にはどんなことでも安らかに受け入れられます。 

Remember ， I love you ． 

そして , どうか忘れないで下さい。私があなたを愛していることを・・・ 

― 作者不詳 

  

  

　 

Copyright © GEODESIQUE. All Rights Reserved.


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   <title>第27回　――キーツの耳はうさぎ耳　　その１―不思議という事 </title>
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   <published>2007-09-29T04:48:10Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:49:01Z</updated>
   
   <summary>前回はある出来事と別の出来事を安易に関連づけてしまう符合ついて述べた ぼくは記憶...</summary>
   <author>
      <name>小島祐二</name>
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   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      前回はある出来事と別の出来事を安易に関連づけてしまう符合ついて述べた
ぼくは記憶の方法として　ある範列の基におこなわれていく自然な抽象化を
なすがままにしておくが　それを止めてまである出来事に意味を問う事はない

出来事に意味を問うという事は　出来事自体に本質を見ようとする事であって
それは　出来事を見る視点　それを見ようとする意思　見たいものを見る事
自ら自身を見る事である
また出来事は連続した帯の瞬間であり　その可能性と不可能性の要素は膨大で
その解析は神の領域となる
その意味において符合が立ち現れるのであって　何かの本質が現前するものではない
自己という近代的知性の方法である　遠近法的視点が立ち現れるだけの事であり
ぼくに言わせると　それは偏見でしかない

倫理的に言って　出来事とはあくまでも他者として　扱わなければならない
ある出来事を超越的に扱い別の出来事と　意思というボイドで繋ぐ必要はない
自らを見るというなら　周りの友人達を見れば十分だ
それに　意思がいかに弱いものかという事は　日常的に経験している事だ

出来事から意味を問うて本質を見出そうという事は　悟りか夢見に似ていて
無限遠点に赴向く事を許される者はそうはいない
正当な宗教―カルトではない―では　改宗において―宗教は常に改宗を迫る
初歩的な逸話としてそれを誘うが　信仰が深まるにつれ禁止され　無意味だとされる
意味があるとするなら　存在にしか　あり得ない
自分が今生きているという事は　それはそれで不思議で　すばらしい事だと思う
世界の了解とは　そこから始めなければならない

世界が匣ではない事を認めるのに　随分と時間がかかったし
いまでも　数直線の０を認めるのと同じように　うまくいかない時がある
それを何となくにせよ納得しようとしたのは　量子論に触れたせいだと思う
こう思うのも熱力学第２法則を認めるからだ
ぼくにとっては　まさにここが時間の生まれる所だ
そして　この時間とは決して一様でも　複雑でもないが
突き詰めて思えば　根源的な不思議さに向かい合う事になる

どのような不思議さかというと　
ぼくは自分自身を予めプログラムされた機械ではないと　証明できないし
という事は　世界もそういえるという事だ
まだ小さかった頃　病弱の母が家でぼくの帰りを待っている　という事が
うまく呑込めずに　寝ていたはずの母に何をしていたか　とよく聞いたものだ
学校で先生に怒られている時や道草をしている時に　すぐ後ろにいなかったと
どうしていえようか　よくそう思っていた

存在と不在の閾の不思議さは　ぼくの思索(こう言えば何だか高尚な事のような響きだが)の
原風景であり　　何処から来てどこへ行くのか　というこの問いに
解を得られる事はないと思うが　厄介な隣人として扱う術を持ち合わせていない訳でもない
また　隣人として礼儀を尽くせば　それなりの恩恵にも与る
しかし存在と非在の閾の不思議には　踏み越えがたい深々たる悲しみが横たわる


2007/9/29
小島祐二


      
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   <title>第26回　――符合ということについて　あるいは傲慢さ？ </title>
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   <published>2007-09-15T04:47:27Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:48:05Z</updated>
   
   <summary>前回　ポール・クローデルとその姉のカミーユについて触れた 翌週推薦した先生の集中...</summary>
   <author>
      <name>小島祐二</name>
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   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      前回　ポール・クローデルとその姉のカミーユについて触れた
翌週推薦した先生の集中講座のお供で助手を連れて　京都へ行った
烏丸御池で打ち合わせを兼ねて食事をして　近くの大垣書店を覗いた
ぼくはここの平台の積みの選択を意外と気に入っている
なんだか国立にあつた増田書店？といったか　
古い話で自信はないが　よく似た感じがしていて好きだ
学生街の書店でいて　何か押し付けがましくない　大人の感じがして
通路でパラパラページをめくっていると　なんだか学生のような気がしてくる

“みすず”の新刊が並んでいた
みすず書房の本は高価で学生時代は　意を決して手に入れなければならず
かといって純粋に研究書という訳でもなく　せりか書房と同じく羨望の的だった
そう考えると　小沢書店やエピステーメを含め知的ファッションの
ただ中にいた　と思う
小沢書店のソフトカバーの双書は二千円を超えていたが　
表紙が銅版画で使われるアルシュのような厚手の紙に
ダ・ビンチの素描をドライポイントで刷り上げたような装丁をめくると
目次がトレッシングペーペーに透けて見えて　なんとも格好良かった

山川の世界史Bの教科書に副読本があって　教師用だったかもしれない
出来事と出来事やその解釈と解釈を関連づけたり
出来事の背景のエピソードを取り上げ　単独の記憶事項を結ぶ時
とりあえず固定する“のり”として　とても役に立ったし
歴史が記述されるという　方法と形式を学んだ
そういった意味で　上記の出版社が出す本は　ぼくにとって“のり”として
ある領域とある領域を読書しながら　楽しんだ
記憶の蓄積とはそのように抽象化していくものだと思う
固有名詞が“のり”に埋没して“のり”の記憶だけになってしまうのも
悲しい気がするが　　想像と抽象についてはここでは触れない

で　大垣書店で　クローデルを見つけた
―眼は聴く―　ポール・クローデル　山崎庸一訳　みすず書房
9社共同復刊　書物復権という帯を巻いてなかなか興味深い
当然　買ってしまったのだが　ここでは　見つけた　という
その偶然性について　ぼくなりに少し述べたいと思う

この事実に意味を重ねてひとつの連なった事象と受け取るか　否かは
心の健康の問題のような気がする
心に隙があると　あるいは無知である事で　幾つかの偶然を符合させ
自己を世界の中心に置いてしまう
乖離していく自己は　やがて世界に裏切られる予感に
いっそう中心を渇望していき　心象を物象化していく
ある種の求道者はこれを身体の限界の所でこれを行ない
見たいものを見る能力を身につけるというが
とは言え　世界はそのようなものに　意を介さない
世界に出てくれば　生物である以上熱力学の法則は絶対である
つまり　お腹は空くし　出したものは元には戻らない

符合させる事は快楽である
世界を了解する事が出来る
偶然を感じる事や見いだす事はうれしい事だ
なぜなら　ぼくはクローデルとカミーュについて思いを巡らせてから
８０万秒後にクローデルとカミーユに出会ったからだ
その８０万秒の中にクローデルとカミーユをいくらでも見いだす事は出来る
また　全く無関係だとも
ぼくは　母親の影響もあって勘の強い子供だったが
思春期に求道者の真似事をして　痛い目にあったので　
二つ以上の符合はやり過ごすし　すぐに宙づりにしてしまう
これは　世界に向けて　われわれ普通の人にとって
精神分析学的にも　正しい姿勢だと思う
また　二人以上嫌いな人がいたり　どうしても大嫌いな人がいる人は
気をつけた方が良い　これも符合が符合を呼び　符合の結末を見る事になる

ぼくはこう思う
おっと　クローデル？
世界もなかなかやるじゃん！


2007/9/15
小島祐二


      
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   <title>第25回　――引き続き　老いについて </title>
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   <published>2007-08-28T04:46:32Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:47:06Z</updated>
   
   <summary>杖を振り回しながら　声高に若い信奉者を引き連れて安宿に向かうベルレーヌと 口ひげ...</summary>
   <author>
      <name>小島祐二</name>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      杖を振り回しながら　声高に若い信奉者を引き連れて安宿に向かうベルレーヌと
口ひげの両端を鳴戸巻きのようにして　殆ど―さかしま―の住人であった
バルベー・ドルーヴィイとのサンミッセル大通りでの　毎日繰り返されるすれ違いを
リュクサンブールのアパートの窓から見ていたというアンリ・ポワンカレの投げかける視線に
老いの共感を感じてしまうは　穿った思い込みだろうか
数学者の晩年は長い
一線から身を引いた所で　とうに代表作を出してまってなおもまた存在を示そうとする
同世代の人に向けられる眼差しの愛着は透き通ったものだと思う 
バルベー・ドルーヴィイはフランス人でも知らない人も多く　国書刊行会でしか出版されておらず
殆ど馴染み薄い作家である
ドルーヴィイの二人の弟子　ジョリ・カルル・ユイスマンスとポール・クローデルの
それぞれの世界との折り合いのつけ方を思うと複雑な思いがする

クローデルは早くに宗教と和解して　官僚として一応順調に大使まで勤め駐日大使として
文楽など日本の文化を理解するとともに　明治憲法下において軍事国家へ向かう危険性を
正確に予測している
ドルーヴィイとマラルメにも等しく距離をとれたのは　姉のカミーユの激しさとその破滅を
傍らで見ていて　魂の奔流に本質的に懐疑を抱いていたのではないだろうか

ユイスマンスはまさに格闘した人である　ようやく―彼方―において和解し得た
ちょっとお腹が空いて　アパートからサンジェルマン大通りを少し斜めに川岸に入った
深夜のオデオンのカフェの前でパリ大の学生たちに混じって　パニーニが焼けるのを
待ちながら偶然ユイスマンスの家を見つけた　　うれしかった
ポワンカレは世紀末の大数学者でホモロジーの概念は　ぼくのデザインという行為
考全般において　基本的原理的なものだ

ベルレーヌの詩に波がひたひたと打ち寄せては劇場を満たすというようなフレーズが
あったような気がするが　老いとはそのようなものだろうか
もちろんベルレーヌは酩酊している


2007/8/28
小島祐二


  


      
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   <title>第24回　父の傍らで寝る</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/2007/08/24.html" />
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   <published>2007-08-25T04:45:51Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:46:22Z</updated>
   
   <summary>マグリット・デュラスは 70 歳を過ぎて　 ― 18 歳の頃わたしは既に老いてい...</summary>
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      <name>小島祐二</name>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      マグリット・デュラスは 70 歳を過ぎて　
― 18 歳の頃わたしは既に老いていた、、、、、、― 
という書き出しから始まる小説を脱稿しているが　 
人はいつから老いを感じるのだろうか 
体力だけでいうなら　スポーツクラブのプールの中央レーンを独占して 
インターバルを繰り返し　戻しそうになりながらマスターズの記録会に備えたが 
どうしても中学の記録には遥かに及ばなかった 
また　固有名詞が思い通りに出てこないとか　 
子供たちの名がコンフィューズしてしまうとか 
ぼくはイプーといいたいのだけれど　キーツとヴィヨンと口にしなければならない時があるが 
そのようなものは　いくらでも理由が付けられる 
が　かつて感じた小学生の頃の通学路を歩いた　その道幅や側溝の狭さへの驚きと 
成長への自負は　いつしか　父の背中や母の胸の小ささの気遣いに取って代わっている 
老いもまた空間として認知するものだという事か 
思春期を過ぎて感じていたその自負も　その時は既に胸腺は萎縮し始めていたというのに 
この空間としての老いは絶対的空間として　諦めを強いる 
しかし　これくらいのものはまだいい 
大丈夫だと思う 
この老いもまた成長していくらしい 

父がそうしていたように　出来るだけではあるが 
３年ほど前から月に一度は両親に会うようにしている 

最近母が日常の体調を保てなくなる期間が　短くなってきて以前のように 
退院を待って帰省し辛くなってきたので母の入院中に帰省が重なる事もあるようになってきた 
そして　母のベットで父の横で寝た 

  

2007/8/25 

小島祐二 


      
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   <title>第23回　――で、犬のはなし　―犬になれないのが　悲しい </title>
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   <published>2007-08-10T04:45:09Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:45:36Z</updated>
   
   <summary>むかしよく詩をよんだ  “ 未来に老いる“というフレーズが好きだった  学生時代...</summary>
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      <name>小島祐二</name>
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   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      むかしよく詩をよんだ 
“ 未来に老いる“というフレーズが好きだった 
学生時代必要にかられてフランソワ・ヴィヨンからマラルメまで読んだが　
ぼくは　その後のとりわけフランシス・ポンジュや イブ・ボヌフォアの 詩には 
強く魅せられて　ヴァレリーやボードレールにはないなんと言えば良いのか
あこがれのようなものを感じた 
象徴派の詩と言えば埴谷雄高の随想集に鋭い指摘があって　西脇順三郎を読み返して 
ポンジュやボヌフォアに傾倒した 

ポンジュの―物の味方―を捩って　イジドール・デュカスのロートレアモン伯 
よろしくＧ・ T ・ディ・ランペドーサ＝ポンジュのペンネームで 
ピース・ユニックのまゆりの絵に詩をつけた 
ランペドーサは公爵だったので　ロートレアモンより偉い 

ついでに　ルキノ・ヴィスコンティーの映画は岩波ホールでまゆりと見たが 
小説―山猫―は読んでいない
ちなみに　ヴィスコンティー家も公爵家でミラノにお城が残っている
―熊座の淡き輝き―のクラウディア・カルディナーレは 
ヴィスコンティー作品の中で最も美しいが 
その伝統の中に自らを埋めことでしか　新しい時代にその形式を残しえないと 
淡々と生きる統一前の老貴族を描いた―山猫―と現代を描いた―家族の肖像― 
を比べてほしい 
ドミニク・サンダもクラウディアに匹敵するほど美しい　余写らないが 
パラダイムが転換する時や死を前にした老いの美しさとは　
このようにありたいと思う 

ボヌフォアは院に進んで大学に残った友人と語った 
未だ存命で絵画論を時々発表している 
―今、ここに―という現前性にことば以上のものを感じてきた
ポンジュの―物の味方―は世界を構築し　ボヌフォアの―今、ここに―は 
決心と諦めのうちに勇気を呼び起こす 
カフカの―世界と君の戦いでは、世界に支援せよ―をようやく理解する　と 

ボヌフォアの言う―今、ここに―にまさしくさらに強く　ぼくの犬たちとの生活がある 
彼らは　今を生きて　未来に老いることもなく　淡々とその生を受け入れる 
今を喜び　また悲しむ　うらやましいと思う
できることなら　そのようにそのまま触れることができたらと思う 
ヨーロッパの街角で出会うホームレスの犬たちの　なんと満ち足りて　物静かなことか 

  

2007/8/10 

小島祐二 


      
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   <title>第22回　フーガ的呟き―続き </title>
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   <published>2007-07-28T04:44:08Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:44:47Z</updated>
   
   <summary>前回はサブカルチャーについて　思わず長くなってしまった レアな庶民的で名のない人...</summary>
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      前回はサブカルチャーについて　思わず長くなってしまった

レアな庶民的で名のない人々のカルチャーの
リレーションという事の重要性の真意ついての
補足を少ししておく必要がなくはないのではないかと思う

 

いわゆるサブカルチャーがあるいは　それを担うと自負する人達が
自らが招き入れるマネタリズムによって　サブカルチャー自体を
疲弊させているのではないかと　指摘しておいた
また　彼ら自身がカルチャーの前衛と錯覚するための補償として
社会学と精神分析を歪な形で取り込み　躁鬱化している
これは各領域で世代を超えてみられる増加現象であり　低年齢化している
そもそも　ロラン・バルトや由良君美が映画や劇画を　
また埋もれた作品などを取り上げたのは　大文字のカルチャーに対する
カウンターであり　サブカルチャーという枠組みに
賛成もしていなければ擁護もしていない　形式の問題性を提示したのである 


現象としてひとつの分野が勢いをなくすとか　
他に内包され統合されるとか　その逆も　また一時的に消えるとか
それは　あり得る事だ
消え去るものや消え去ったものについては
制度的枠組みを超えた　パラダイムの転換に関わる事なので
ここでは触れる力量がない 
ぼくは良きリレーションに身をおいていたと書いたが　真にリレーションは
マスではおこなえない
マスでおこなわれ得る事と言えば　雰囲気や噂を形成させるぐらいで
知的な深度としては浅く　確信としては脆いものである 
これは明治以来文化制度として根付いており
我が国では思想家や哲学者ではなく　批評家がその役割を果たしてきた
そして彼らは　膨大な枚数を重ねながら　一度も体系化させた事がない
よく脱構築について　戯れとかノマドあるいは逃走と言われたが　
それは　形式や構造からの行為や所作であって　形式や構造の理解には
ある程度の付帯した知識と気づきがないと　形式なり構造は見えてこない
例えば　それは教師と学生の距離が一層身近くなるゼミの後の研究室での
談話においてであり　かつて重要だったのは父親や伯・叔父との間に為された
子弟関係における一子相伝に理想をみるのかもしれないが
そこでは形式が受け渡されるのであって　いわゆるハウツーとは対極にある
説明なしに提示されるだけである
あくまでも収蔵された知とは固有のものでありながら
その形式を支える方法論的系譜として体系化されていく 


ぼくは軽井沢に連れて行かれたが　フォンタナやその絵については
何も語られず　別荘地の側溝に自生していたクレソンを見つけて
一杯摘んで　冷たいポタージュスープを作って食べた


2007.07.28 
小島祐二 


      
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   <title>第21回　フーガ的呟き―パリ祭にて　あるいは結婚記念日 </title>
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   <published>2007-07-14T04:43:16Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:43:56Z</updated>
   
   <summary>前々回はちょっと犬について考えてみた 経済学的に言うと犬飼は全く愚かな事をしてい...</summary>
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      前々回はちょっと犬について考えてみた
経済学的に言うと犬飼は全く愚かな事をしていると書いたが
全く愚かである
と言うのは　経済学が想定してきた人という概念は
不合理な行為をなし得ない人であり
たとえ不合理に陥ったとしても神の見えざる手がついには働くという
神学的な面を引きずっていた
それは　ゲーム・確率理論や不確定性をもとにした　
論理経済学にしても　現実の諸現象に敷衍する人たちの根底には　
見え隠れしているように思われる
巷では平然と　ピザを６切りにするか８切りにするか　
的な理論が横行していて　一向にそれがやむ事はない
ちなみに　ぼくは腹が減っていようがいまいが　６切りの方がいい

このところ　よく思う事だが　真に支持者する人たちが一段といない
あるいは　社会的に無言にしてはいても　それを温め慈しみながら
日常の規範としていた人達の層がいなくなったのではないだろうか
改まって問われて　おもむろにはにかむように　答えるという
にも関わらず　消費されていく
消費は効率を求める競争でもあり　その根拠は利己性にあるはずだ
人は利己的であるというのは　その通りである
が　利己的な事自体は悪い事ではない
そもそも利己的な感情をもとにその感情の多様性によって
人類は繁栄してきたのだから

しかしながら　利己的なところに競争が介在しているのが　
猿人以来の我々の世界である
ぼくはいわゆるサブカルチャーというコトバが嫌いだし
その括り自体が理解できない
そもそもサブカルチャーとは生活そのものの愉しみである訳であるから
小さくも大切な日々の幸福であり　また内に日々沈殿していく齟齬(疎外)
を攪拌して　ブラウン運動のようなものに換え
本来　明日を希望させるべきものである

思うに　ぼくはヴァルター・ベンヤミンにサブカルチャー論の初現を見出すが
ジェルジュ・ルカーチはベンヤミンを読んでいたか　知っていたはずだ
ルカーチは藝術にも上部・下部構造をみて　下部の文化構造の活性化を説いたが
そのときの下部構造とは　例えば口の回らない頃から論語などを
親の口から音読させられた人々や
勧進帳の台詞と所作をその筋を時代背景と供に暗記して
子供たちにその真似をさせる人達のような層を想定しているのであって
それは庶民的でのよくある家庭の一風景だった
就職してデベートやコーチングの根拠としてその口語訳に触れたり
マニュアル本を片手に観劇する人達ではない

その時代のエピステモロジーの枠内では　本来サブカルチャーが
凡そ体系化された学説や最新の理論など敷衍できようもないが
そもそもサブとはそのような役目を持ち得ない
今日　前面に立ったことでマネタリズムに晒され連続性を断たれた
サブカルチャーがその消耗した知的深度と物理的制度のもとで
どのようなシャッフルと循環が行なわれるのだろうか
個人的にはルーズソックスとシャネルのポシェットのミスマッチには
期待を寄せていたが 
学生の頃　サブカルチャーで特権的地位を占めていたのが
映画とファッション　あるいは宗教とロマン的マイナーだった
映画とファッションは身体論であり
宗教は改宗を迫る以上これも身体的であり　
ロマンとは身体的行為に他ならない
また　いずれも反語的にしろマスを望洋している
流行通信に由良君美が連載し始めたのも　その頃だったように思う
それから　マリークレール等の雑誌と劇画の時代となった

そして　ロラン・バルトである
その時既に　レヴィ・ストロースや
―青い狐―マルセル・グリオール　ジェルメーヌ・ディルラン供書
文化人類学者たちの本を齧り　なんといっても　カール・グスタフ・ユンクの
アーキタイプを知っていた
ぼくたちは面白いようにいい加減な分析が出来た
やがて　バルトは―快楽のテクスト―を表し　
僕たちのような稚拙で方法論を欠いた未秩序で虎の威を借りた　
エピゴーネンたちを批判した
そして　丸山圭三郎によってランガージュの深遠さを覗かされた時だった
ぼくはフォンタナに実際に触れたのだった
―白い切り裂かれたキャンパス―　
人は一見関係のないように思われる事に　打たれる事がままあるというが
その時　ぼくにとってそれは空間と言う概念の新たな啓示だった

神話的＝神学的上昇とは無縁の―いま―という空間
スリットの向こうの風景―いま―という　複数性と重層性あるいは多島海性
視線の蓋然性に圧倒され　途方に暮れる思いがした
―シュールの思想―を上梓し終えた丸山圭三郎の授業は　確信に満ちていたが
家に帰って例えば　恣意性と関係性についてノートを整理していると
授業で力強く導かれていたにもかかわらず　どうしようもなく途方に暮れた
いまこうして　フォンタナの衝撃と多島性とその視線の蓋然性について
思いをよせていると　先生のホモ・ファベールしか見る事がなかったぼくは
死を前にしていた―ホモ・モルタリス―の必然が見えてくる

ぼくはこのように　フォンタナに視線という空間を啓示された
そして　まだ学生のぼくを　軽井沢の高輪美術館にフォンタナが
来ているからと　連れ出したのが　後で師匠となる人達だった
ぼくは　幸福なリレーションの中にいたと思う
そして　ずっと一緒だった　ありがたく思う

2007.07.14

小島祐二 


      
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   <title>第20回　愈々盛って　しか　リハビリか？― ― 西瓜“党”の日々 </title>
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   <published>2007-06-20T04:42:29Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:43:14Z</updated>
   
   <summary>西瓜の季節であるが　余り甘くない　糖度が１２度程度で渋々である 一番生りが当然一...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      西瓜の季節であるが　余り甘くない　糖度が１２度程度で渋々である
一番生りが当然一番甘いが
産地を北上していっても８月に入ってしまうと美味しくなくなってしまうので
梅雨の中休みのかんかん照りを期待したい
その渋々の真ん中だけを食べて 後を子供たちにも分けてやる
と言うか　食べてもらう
ゲクランで発見したのだが　犬は西瓜が大好きである　　
と言うか家の個体たちは全てがである
シャカシャカとよく食べて　
“美味しいぃ～”とうっとりした視線を送って来た　
で　 現在である　
いやはや何と言うか　 とんまな戦いのような惨状が繰り広げられる


大体４つ割にしたのを買ってくるので　 それを横に２つに切ってそれぞれが食べる訳だが
縦に公平に切り分けるのは大変難しい　 正確に切らないと注意と指導が入る　
好きなものついてはことさら　切った人が少ない方を取るようにと　
子供の頃　親に習ったが
出来るだけ公平に見せて多い方を取るか　 小さい方を選ばせるのだ　

イプゥーが最初に　まだですか　もう良いのではないですか　
もう　赤いところ赤いところ　 とやって来る
で　しょうがないのであげると　 涎を　どぅーっと　ほんとにどぅーっとである
落としながらシャカシャカとやる
そのうちに　 まるでお迎えが来たように寝ていたキーツがむっくり起き出して
ぼくもぼくもと言って来る
嗅覚は依然として健在らしい
キーツは怖いのである　

何度言って聞かせても　バクッパクッと二段噛みして指まで食われてしまうので　
これには　まゆりは不参加である
そこで　スプーンを持ち出して上に乗せて　少し固定してあげることにしている
キーツも心置きなく食いつける訳だが
最初のがぶりで勢い余ってスプーンの上から毎回のように飛ばしてしまう
飛んで行った西瓜をヴィヨンが下で待っていて　少し斜め気味にシャカシャカと始める
かくして　床には西瓜糖が撒き散らかされるのである　

先日のは急に夕方から寒くなったし　特に甘くなかったので　
子供たちへ大サービスとなり二皿分切ってあげた
最初は喜んでいた子供たちも次第に飽きて来たらしく
ペースが緩くなったと思ったら
急にぽとりと床に落として　さっさと２階へ上がってしまった
全く現金なものだ　サービスが過ぎて　だいぶ青臭かったかもしれない
こうして　我が家の西瓜糖の日々も中休みである　

前回の題は荘子から拝借した　
荘子では “胡蝶の夢”の方が広く知られているようだけれど　
ぼくは恵子と橋の上から交わした
“魚の楽しみ”についての対話を知った時の事を思い返すのが好きだ
折々につけ立ち返るコトバの一つで　胡蝶の夢もそうだけれど　
韓非子の“切り株”や明るいとは　とても言えないけれど
論語を含めて漢籍のある種の空間をなしている
その周縁を薄く取り巻いてきたような気がする　

そして　今となってはとても稚拙で恥ずかしいが　
高一の倫社でソフィスト達と一緒に夏の汗と伴に流してしまった
まぁ～ホルモンのなせる技ではあるが　
それからホルモンの真っ直中へ進んで　それはもう恥ずかしいの上をいく
“筆舌に尽くし難し”＜そのコトバを知らない　
ジェノバの禿げ山の激しい嵐の一夜？
磔刑にして塩を撒きたい　とか意味もなく思う　

今となっては　あの頃の自分が信じられないし理解不可能で　
到底今の自分との繋がりを拒絶したいのだけれどそれでも
その後ろめたさにめげそうになりながらも　それをインテンションにしてはいるが
中学や高校の同窓会には絶対に“行きたくない”
思わず　力が入ってしまった　遠くにいて良かったと思う　

それからロラン・バルトにその浄化したものを見せられ　
それは鮮やかできらきら煌めいてめくるめいていて
目が廻って掴み損ねたけれど　 目に入ってきた残像は今でも　
ぼくの脳の中で虹のように輝いている
まるで　狐の嫁入りのような雨に打たれた印象を持っている　
それからミシェル・フーコーでありジャック・デリダとのデカルトを巡る理性論争であり　
カントの微睡みとヒュームの唸りである
そのようにしてその空間は広がり続け　
その時折々の印象と解釈のうちに　他の空間を併せたり　

例えばガリバー旅行記はぼくの中では　ヘンリー・Ｄ・ソローやレイチェル・カーソンへと続き
リチャード・ブローティガンでは　アイリーンという名が　
レイチェルと同じようにその響きから永遠の名前となり
明るく眩しい日差しの下にも　心に沁み入る透明なリリックの悲しみ味わったその時
ポール・ヴァレリーの“海辺の墓地”のについて“ルミエール”というサブタイトルを付けたレポートを書いていた
キーツは“アメリカの鱒釣り”の土地から来て　アイリーンの香りがする
それから　この空間には後年　ヘルマン・ヘッセがメイ・サートンと伴に回帰してくることになる
ガリバーは“フウイヌム”の最終章まで読むべきだ
ちなみにバックミンスター・フラーはソローの一族である　　
かなり問題児視されていた　

一時的には途切れたようでも　また更に薄く伸びて世界を輪郭づけていく
私という世界もそのようなものだと思う
私という自己とは決して私の中心にはいないものだ
私という意識は薄く延びるだけ延びて私という縁であるほうがいい　

 

鶴ヶ谷真一―書讀羊亡

イチェル・カーソン―海辺　センス・オヴ・ワンダー

ヘンリー・ディヴィット・ソロー ―森の生活 ― ウォールデン

ヘルマン・ヘッセ―庭仕事の愉しみ

メイ・サートン―ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く独り居の日記

リチャード・ブローティガン―西瓜糖の日々

ポール・ヴァレリー―魅惑　テスト氏

 

ウィリアム・アッカーマン―Passage／Anne&apos;s Song

ジャニス・イアン―Between The Lines／At Seventeen
　 


2007.6.20

小島祐二


      
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   <title>第19回　書讀犬亡 ――“レポート”を読んで“犬”を失う――あるいは 2 ボルゾイ忘主散歩　リハビリは進みつつあるか</title>
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   <published>2007-05-28T04:38:41Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:40:02Z</updated>
   
   <summary>講義と大学の行事（浜村の掃除をして砂のオブジェを作り　  そして砂に戻す）を終え...</summary>
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   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      講義と大学の行事（浜村の掃除をして砂のオブジェを作り　 

そして砂に戻す）を終え ４日ぶりに帰宅して子供達の熱烈歓迎を軽くいなして　 

あまりご機嫌の宜しくないまゆり様には早々に 帰って 寝てもらって　 

明け方迄　学生達から回収したレポートをファイルに納めながら添削と採点をした 

レポートを課題として提出させると　 32 倍の仕返しが待っている 

で　追筆や再提出の仕返しをすると　またそれだけの仕返しが待っている　堂々巡りではある 

最近は夕方が長く明るくていいのだけれど　 

夏至も近くすぐ夜が明ける　とむかつきながら PC を閉じて 

見張りを要するヴぃよんは　傍で痙攣しながら白目を剥いて寝ていて　 

といっても PC を閉じる音に直ぐに反応する訳で 

中庭で涼んでいたキーツとイプーを探すと　いない　　門が開いている　 

さっき排泄させたときは閉まっていたはずだが　が　何処にもいない 

で　外に出て見回すが　辺りには気配がないので　 

慌てて自転車で散歩コースの西は砧公園から東は馬事公苑と渦巻き状に中へ　 

また外へと　 浜村の 砂掘りで疲れた足腰で駆け回った　 

これって　空間デザイン論で意地悪く宣うたプラトン立体の正四面体の渦巻きではないか 

仕返しではないのか　バチ？？？　で　いない　　目がチカチカしてきて 

じっちゃんのキーツがそんな遠くに出かけるはずがないじゃないかと　 

訳がわからなくなって　 110 番した 

―はい　警察です　事故ですか　事件ですか 

―いえ　あのう　犬が、、、、　門があいていて　犬がいなくなってしまって　 

　　そう言う情報が届いてないものかと 

―どちらに　お住まいですか　　ここで張りつめていた声のトーンが親密なというか　 

　　同情的な響きが広がる 

―上用賀です　 

―それなら　所轄の警察署の電話をお教えしますから　メモをお願いします　　親切である 

―もしもし　犬がいなくなって　情報がない か と電話したんですが 

―ああ　先ほど世田谷署の方から　アフガンを保護したので問い合わせがないか　 

　　連絡がありましたがアフガンですか 

―いえ　ボルゾイですが　　よく混同されるので　 2 頭で白ければ家の 子達 です 

―じゃ　世田谷署に問い合わせてみてください　メモは良いですか。。。 

―もしもし　世田谷署の方で犬を保護されていると聞きまして　電話しているのですが 

―はい　先ほど保護したようです 

―アフガンらしいとの事でしたが　白いボルゾイ２頭ではないですか 

―あれは　ボルゾイですか　 

―ええ　鑑札は着けていないのですが　迷い子札を着けていてキーツと言います　ありますか 

―ここにはいないのでね　でも白い２頭ですよ 

―それなら家の子達です　すみません今から引き取りに参りますので　宜しくお願いします 

―はい　場所はご存知ですか　 

―はい　 246 沿いの三茶の手前を入った所ですよね 

―そうです 

という訳で　お巡りさんに聞いた所 

キーツとイプーはアトリエから 30 メートル先の公園を 彼らだけで 散歩中　 

御用となりパトカーの犬となったのである 

夜明け前とは言え　 この近辺の幹線道路である用賀中町 道路を横断したなんて 

―横断歩道はあるが―ぞっ！としてしまう 

ぼくはよたよた歩くキーツをかばって　 

車に体当たりする夢に飛び起きることが　ままあったりする 


で　着いてみると　 5-6 人のお巡りさんに囲まれて　しっぽを揺らしているのを発見 

―良く言う事聞きますね　車好きですね　　ずっと大人しく付いてきましたよ　　 

　　車でよく出かけられているのですか　 

―はい　ありがとうございます　　　　　――じゃないよ――　　 

―良かったねぇ?　迎えに来てもらって　いい子達ですね 

―はぁ　どうも　お世話 を おかけしてしまって、、、　　――逮捕されたのに？―― 


と　すっかり夜明けとなってしまった 

いやはや　なんと言うか　良かった―まゆり様に 先に帰って 寝て頂いていて―何もなくて　 

と言うか　まったく　油断していて　飼い主失格である　　運がついていた　 

もしかしたら　ゲェー （ゲクランのことを僕たちはそう呼ぶ） かぁ?？とも思ってしまう　　 

先日のヴぃょんと言い 


で　犬について　少し考えた 


昨年ぼく達にとっては大きな事件があった 

あるドックパークが倒産して　大量の犬達が放棄された 

それに続き　そのレスキュー活動の顛末で紛糾した 

その事は　レスキューのあり方に深い傷を残した思う 

犬達は何処かで次々と生まれ　次々と死んでいく――みなが悲惨だという訳ではない　 

犬の生涯は人と比べ圧倒的に短いからだ 


飼い犬は人に最も寄添って生きている動物である 

しかし実は　 犬飼（犬に付帯して利益を得ようとする人を含め） が最も寄り添っているのであって　 

経済学的には　不合理な行動をしている頭の悪い人たちである　と言うことになろうか 

有益性でみれば人間に寄り添って（無理矢理も含めて）生きる他の動物に比べ　 

圧倒的に手間がかかり　かつ　他に比べ有益性の経費対効果は　驚くほど低いどころかマイナスである 

犬自体ででは儲からないのである　 

そこで　付帯して利益を見出す訳だが　どうしても歪んだ形をとってしまう―― 

とても正常とは思えない 


しかし　一度暮らし始めると　もう 止（や） められない 

そして　犬の生涯は恐ろしく短く　だからこそ　ぼくたちは一層いとおしく思うし 

ぼくはゲクランと暮らし始めた日から　ゲクランを抱いた温もりのうちに　その別れに戦いた


この経費対価の低さに犬にまつわる個々の不幸があるはずであるが　 

野生動物達が絶滅していくなか　こうも種として繁栄している動物もいまい 

遥か大昔に強かに人に近づいて虜にしたように　強かに生き抜いて欲しいと願う 


2007.05.28 

小島祐二　　 



      
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   <title>第18回　沿線駅ビルの本屋で蓮見重彦と柄谷行人を同時に買う――リハビリ進まず </title>
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   <published>2007-05-16T04:37:56Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:41:45Z</updated>
   
   <summary>最近よく外出する  で　つい本屋によることになる  目当ては堀出し物のサスペンス...</summary>
   <author>
      <name>小島祐二</name>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://geodesique.co.jp/blog/ujing/">
      最近よく外出する 

で　つい本屋によることになる 

目当ては堀出し物のサスペンスもの　

ぼくはまだ 15 年ぐらいの若輩ものなので　探すといろいろある 

乗り降りする駅ビルの本屋には出かけるたびに入るので　

文庫の棚が新しくなっていなければ　やることがなくなるので 

次いでだからと　新書のコーナーに向かう　前の大半を占める雑誌コーナーには　

もう既についていけなくなっているので　近づけない 

で　佐藤賢一や加藤廣の横に中澤新一や若菜みどりがいたりして　

また　ロレンス・ダレルやジュリアン・グラックがソフトカバーで 

再販されていて出版業界の一端を感じたりする　　 

まぁ　ダレルの―アレキサンドリア四重奏―は始めの―ジュスチーヌ―しか無かったりする訳だけれども 

そんなふうにして　蓮見重彦と柄谷行人を買った 

どうだろう　学生時代同時に買ったことがあるだろうか　と思いつつ何だか懐かしかったりした 

蓮見先生は日経のスポーツ欄を担当されていて　なかなか楽しい 


それと　出版されるたびに積み重ねられている池田晶子の本がある 

この人は随分昔に仕事を終えて帰ってテレビをつけたら―朝迄生テレビ―をやっていて　

藤原正彦や西尾幹二に 

――幸せってなんですかぁ?――とだるそうに質問していたのが　印象に残っている 

それから　また見ることを期待していたが　出演がつまらなかったのか　

同じ番組には出なかったようなので チェック から外れていたが 

いよいよ埴谷雄高がなくなるのではないかという時に　

対談が出て　なんで？というか嫉妬？してしまった 

それから　ソフィーやらと相まって　 ベストセラー 作家になって遠く 離れた 存在になってしまっていたが　 

いつかは　まとまった論考が出るものと期待していたが　感慨深くページをめくった 


最近はと言うと　良く仕事をしている 

仕事 と いうとぼくの仕事は　ジュエラーなのでデザインをしている　今年は例年になく多い 

ずっと店舗スタッフに要請されていたシルバー地金リング　第二弾である 

龍のリング　群雲のリング　独鈷のリング 

龍は子供の頃から　長崎の“おくんち”で金の玉を――くれよ　くれよ――と練り回るのがいじらしく可愛い　

一度やらせてもらいたい　 

それから　泣いているような　笑っているような　北斎の龍　　キーツに良く似ていると思う 

元々は水の精で荒川を表象していて　農耕の神でもある　　

農耕国家として文明を築いて来た中国王権を現している 

日本も含め朝貢国家は中国王朝に敬意を表して　龍の爪は３本爪である　

随の煬帝のように治水は国家繁栄の礎であった 

治水されて可愛くなった龍が好きだ　　

二人で“白”が苦しんでいるシーンではキーツが苦しんでいるようで涙が出てしまった 

龍が雨上がりの虹で紫に染まって群れて湧き上がる雲の上で　

くねくねと玉を追いかけ　独鈷の輪がチリンチリンと鳴り 

そんな空の下で犬達と草の上で昼寝でもして微睡みたい　　

多少地面が湿っていたって構わない 


最近は一段と忙しくなってしまって本が睡眠導入剤のようになってしまって久しい　

とは言っても　塩野七生の“ローマ人の物語”には敬意を表したいし　

“風の影” ? カルロス・ルイス サフォン―のプロットはともかく文中引用には　逐一しびれるものがあったし　 

なんと言っても　―ダン・シモンズ―“イリアム　オリンポス上・下”３部作である　

今回は“イリアム”から“オリンポス上・下”まで翻訳が早かったので　

“ハイペリオン”４部作ほど混乱せずにすんだ　５年ぐらいかけて刊行されたと言うわけで　

ベットの下にはキーツとイプーの毛を被った SF 　サプペンス　ハードボイルド

―といってもチャンドラーしか読まないが― 

貯まってしまっている 

と言いつつ養老先生の―もうおしまい！の―“超バカの壁”や“９９％は仮説”で人を煙に巻いたりして　

なんともいい加減な読書生活ではある 


が　しかし　上の２著作を既知の事で余計なお世話であると　お考えの人は　

ロジャー＝ベーコンのイドラやウイリアム＝ウォカムの剃刀を踏まえて“普遍論争”について思いを巡らし　

ディヴィット＝ヒュームの不可知論を訪ねてはどうか 

恐らく浜辺で座礁しかけている多くの知と言えば言えるようなものの隣に自らの“砂 ” を見出すのではないか　　

まぁ　余計なお世話ではある 

そのようにカントは微睡みの中でヒュームのうなり声を聞いたはずだ 

埴谷雄高が“想う＝思索”と言う時はこのような所作を指しているのだと思う 

ぼくはうめきに口を押さえたヘーゲルの布に　唾液に混じった血の匂いを　吉本隆明のようには嗅がない 

ただ例えば　雨上がりの美しい夕日を見れなくなる日が来るのが悲しい 

また　この美しさを感じる心と　その美しさ自体がなくなってしまうのかと思うと　

時としてうめき声を上げたくなってしまう 


――人は病気で死ぬのではないのです　生まれて来たから死ぬのです――池田晶子 

いつか読もうと思っていた 

美しいうめきだと思う 


2007.05.16 

小島祐二 

　 


      
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   <title>第17回　ださいお侍が来るよ　さようか　――或はリハビリ？</title>
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   <published>2006-07-21T04:36:49Z</published>
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   <summary>話は随分と遡ってしまうけれど アマゾンだと年明けの配達になってしまうので　昨年末...</summary>
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      話は随分と遡ってしまうけれど

アマゾンだと年明けの配達になってしまうので　昨年末恒例になっている『ローマ人の物語』を蔦屋に買いに行って　

ちょっと迷ったのだけれども　ついでに奥泉光の『バナールな現象』を買ってしまった

新年から笑えた

今年は新年早々から　幸先の良いスタートを切れたように見えたのだけれども

今のところ　購入した本の方が多くなってしまった

という訳で日曜版を見ながらアマゾンをクリックしたりすると

“こんにちは　小島祐二さん　おすすめの商品があります”とくるとちょっと嫌な感じになるし　

“あなたの本が〇〇〇〇〇で売れます”と追い打ちをかけられると“紀伊国屋で買うぞ！”と言いたくなってしまう

そして世の中を（世界）見回しながら　例えばこのような法則（ドグマ）を導きだす

人は何時でもいい加減で本末転倒な責任転嫁をしてしまう


で　なんでこのような場合普通“人は…….”と言い　“自分は……..”と始めないのだろうか

“自分は……..”と始める場合の方が深刻な問題を抱えている場合が多いわけだけれども

少なくともそういう人たちは自己を人へと相対化していないので　その場所にいる限りは解決の端緒を掴んではいる

あとは踏み出す勇気と自己への配慮と気遣い　つまりは努力　或は始めに決めた事に対する忠実さ？

人はと言うときの無神経さは二重の責任回避であって　常に責任転嫁は二重の責任回避という二重構造になっている

また責任転嫁は責任の有無が曖昧な形としてでしか　形にならない地平に生じてしまう

少なくとも無神経な世界にいる彼には　そのような形にしか　その場所にいる限りそう見えてしまう


当時グノーシス主義の影響か　ぼくはグレゴリー・ベイトソンの『天使のおそれ』はそう読んだ

今でもさらに　そう思う

グノーシスの天使たちは　そのような場所にこそ“恐れて近づかない”

そのような世界と自己との関係は世界を見回しても　自己へと回帰しない幻想としての鏡像関係（評価し過ぎ？）であり

子供の世界のような入れ子になって閉じた“ふつう”とか“みんなが”という凡そ成立しているはずのない世界である


ぼくはアマゾンから届いた本を順序よく　或は好みに合わせて読み進めばいいのだし　読めないものは注文しなければいい

読まない理由を読めない理由として　滔々と考えだす必要などない


奥泉光の『バナールな現象』はとにかく笑った

“ださいお侍がくるよ　さようか”まさにバナール！

バナールなものに意味を見出す事には　意味があるのなら意味があるのだろうけれども　ふつうとか　みんながとか

ましてや正義や正当性を持ち出さないでほしい

時として子供や仕事が疎ましいことはバナールな事象な訳だし　そこに意味を見いだすのは何か理由があるからだ


ベイトソンの問いに

“子供にほうれん草を食べさせるたびに　褒美としてアイスクリームを食べさせる母親がいる”

このとき

　　1 ほうれん草が好きになるか嫌いになるか

　　2 アイスクリームが好きになるか

　　3 母親を好きになるか嫌いになるか

これらの予測が成り立つためには　他にどのような情報が必要か

この問いに答えるにはむやみに情報を集めても意味があるわけではない　

まずは1か2か或は3かの仮説に立って情報を集め整理検証していくのだから　仮説を立てる事や立て方が重要で

必要なのは仮説だという事だ

と言う事は問題の設定能力であり　問題意識そのものという事だ

まさに心理学用語の“ダブルバインド”という概念をイノベートしたベイトソンらしい　問いかけだと思う

ベイトソンは仮説を立てて　“謙虚”に情報（事実）を集めればよいと言っている

そして　“謙虚さ”とは心の問題だとも


2006年7月21日

小島祐二 


 


      
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   <title>第16回　模様替えを終えて</title>
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   <published>2005-02-19T04:35:58Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:36:44Z</updated>
   
   <summary>模様替えを終えて新年を迎えた 新年を迎えるたびに　一茶の句を思い浮かべるようにな...</summary>
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      模様替えを終えて新年を迎えた
新年を迎えるたびに　一茶の句を思い浮かべるようになってどのくらい経つだろうか
俳句は心象の流れをピンで刺しぬいたような爽快感がある
五七調とは不思議なものだ
新年早々実家に帰って部屋にこもって本読むのも気が引けて　よくテレビを見た
兄夫婦の所で録画してあったプライドを見て笑ってしまった
&quot;煩悩を超えた本能！&quot;　誰のことを言ったか覚えていないが　未だに古館のままだ
形式はそのままに表層だけが過激に進化し　また循環していく
成熟と爛熟あるいは衰退？
熱狂している人達を眺めながら　ローマの&quot;飴と鞭&quot;について思いを寄せた
テレビは無料でこの熱狂を提供してくれるが　そのコストは消費者が担う
消費者と視聴者の裏面性の差異に利潤が生まれる　
そしてそのコストは両者が担う　さらに彼は生産者かも知れない
しかし　また彼は確実に納税者でもある

小学生のとき友人と映画を見に行ったとき　初めて自分でお金を払った
家に帰ってテレビを見ながら不思議に思った事を覚えている
と言ってもその映画のあるシーンとセットになって鮮明に思い出せるのだけれど

それは騎士とその友人たちが数々の困難を乗り越えて聖杯を手に入れ
王国に平和をもたらすという　とアーサー王と円卓の騎士にセント・ジョージの竜退治を
エピソードとして取り入れた物語だった
竜が騎士に切りつけられ腕が落ちたときの肉の断面が　その日の夕飯のおかずだった
トンカツを切った断面とそっくりだったので手をつけられなかった
それからしばらく肉を食べられなくなったからだ

テレビを見ながら映画と比べてすばらしい仕組みだと思った
それからしばらくして　ぼくは映画を擁護する立場になったが　時代は進んで
映像の視聴の方法とその仕組みも分化して変わり　受益と負担と言うような利潤の源泉は
単純な説明の範囲を超えてしまっている
いまやこの仕組みを深く疑わずにはいられない
地上・衛星波／各種ケーブル等々視聴者の差異の数を増やすことで　その利潤と富は
部分の総和を越ええたのだろうか
そしてそれら一つ一つの楽しみは　ぼくらの幸福にいかに蓄積しうるのか
またその個々のインフラストラクチュアーを担っていく富の源泉は見出せるのだろうか

１月書籍紹介
ダ・ヴィンチ・コード 上下　ダン・ブラウン (著), 越前 敏弥 (翻訳)
『イエスの墓』や『レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説 』などを
読んでいたせいかしばらく読まずにいたが　つい蔦屋の書籍コナーでふらっと
買ってしまった
どうもハリウッド的なプロットとストーリー展開でやはり好きになれなかった
どうもこのてのものでは『バラの名前』を超えるものはないようだ
かと言ってエーコは『フーコーの振り子』ではさほど小説として成功していないと思うし
『前日島』にいたっては『ご冗談でしょう　ファインマンさん』を見習って欲しい
R・ルーセルの『アフリカの印象』のように誰もその知識に気づかずに読んでいるのでは
ないのだから解説本など書かないで欲しいものだ
話が外れてしまった
フランスには長らく&quot;ローマの長女&quot;としての自負があってこのような伝説がある
また　神聖ローマ帝国の開祖としてカトリック教会はメロヴィング朝に負うところも多い
上記の2冊を既に読まれている方はP・クロソフスキーの『バフォメット』などはどうだろうか

珈琲相場師 ハヤカワ・ミステリ文庫　デイヴィッド・リス (著), 松下 祥子 (翻訳)
半身 創元推理文庫　サラ ウォーターズ (著), Sarah Waters (原著), 中村 有希 (翻訳)
上の『ダ・ヴィンチ・コード』と同じように正月の団欒の邪魔にならないものを選んだ
『半身』のサラ・ウォーターズは『氷の家』や『女彫刻家』ミネット ウォルターズと
名前を間違って姉妹かと思って興味を持ったので買ってみた　失敗した
これはイギリスらしいがぼくのミステリーの範疇からは外れるので時間を損してしまった
『珈琲相場師』はなかなか面白く　久しぶりに好きなタイプの女性に会った
できれば最後まで彼女にはドロンジョのように振舞って欲しかったが
最近は何だか近未来ものより近世の方が多いようだ
近世と言う言い方は日本史的なのかもしれないが
そうだ　これについて考えも面白いかもしれない
近代とは呼ぶが近世とは世界史においてはそのようにまとめた範疇はない
そのような意味で明治以降の視点に異議を唱えられておられた　網野善彦の仕事は
大切にしなければと思う　昨年2月惜しくも亡くなられた
近未来ものより近世の方が好まれるのか　日本史的な近世と呼ぶ事については
史的解釈に共通の視的構造とそのイデオロギーがあると思うけれども　
ここで云々する事は差し控えたい
いずれF・ブローデルについて語る事があると思うからだ
この近世ものでは『五輪の薔薇』C・パリサーや『ジョン・ランブリエールの辞書』
L・ノーフォークのような大英帝国的な大著よりも『魔女は夜ささやく』の
ロバート・R・マキャモンの方が好きだ

最後の努力 ローマ人の物語 13　塩野 七生 (著)
原因はこの本だ
毎年年末に出るこの本を今年はアマゾンで買わないと決めていた
と言うのは年を越して他の本と一緒にまとめて配達されるからだ
村上春樹の新刊『アフターダーク』も予約していたにもかかわらず　ずいぶん遅れて配達された
年の初めに『ローマ人の物語』を読むのが恒例に成っている人も多いと思う
で蔦屋で他の余計なものを買ってしまった
で　『ゲルマンとの方へ』は先延ばしになってしまった

脱商品化の時代―アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界
イマニュエル ウォーラーステイン (著), Immanuel Wallerstein (原著), 山下 範久 (翻訳)
学生のときに未解決のままにしてある事柄に久しぶりに触れて嬉しかった
ぼくらが普通に用いている&quot;社会&quot;&quot;発展&quot;という社会学系の用語について抱いていた
気持ちの悪さを明確に指し示してあって嬉しかった
また　語られる用語にある程度の知識を要するので読解するのと同じように楽しかった
なかでも第1次・２次世界大戦をドイツ対アメリカ３０年戦争という捉え方は
まさにブローデル的だと思う　
ウォーラーステインは時事評のようなものを時折発表しているが　今後コンドラチェフ波動の
B局面において彼のなかでは中国経済がどのような振る舞いをすると予想しているのだろうか

今年はカトリックとグノーシス　井筒俊彦の著作（イスラム）とプロテスタントへ
それからまた地中海へと戻ろうと思っていたが
ウォーラーステインを挿入しなければならなくなった　いづれにしてもブローデルだ


2005年2月19日 


小島祐二 


 


      
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   <title>第15回　引き続き&quot;セカチュー&quot;と自己中にて――&quot;セカチュー&quot;</title>
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   <published>2005-01-24T04:34:48Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:35:34Z</updated>
   
   <summary>主人公と同世代の人達が　ひたすら語り手の視点からのみ語られていくこのドラマを &quot;...</summary>
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      主人公と同世代の人達が　ひたすら語り手の視点からのみ語られていくこのドラマを
&quot;セカチュー&quot;と名付けた事に興味深く思う
また　まったく正しいとさえ感じている
中心性のあるいは境界線への憧れと侮蔑を感じる
彼らは中心／境界線が思念的な幻想であることを知っており　またそれについて語ることは
陳腐なドラマツルギーに陥らざるを得ないことについても　恐らくは気づいている
憧れと侮蔑が生むものは憤りであり　これはいつの時代も正当性を持つものだ
2004年1２月末

補足
以下は上の文について&quot;セカチュー&quot;の名付け親の世代の只中にいる
南里家の長女みなみちゃんからもらったコメントへの返事の主要な部分である
非常に読みやすく解りやすくなっているかと思う


恋愛は人それぞれでまったく個人的な訳だけれど　その語られ方や総括の仕方には
ある幾つかのパターンがあるように思える
世代的に行動心理学的に生物学的に等々　また普遍性を持つものとして
そしてその普遍性は複数性のもとに反復し循環する
恋人が死んでしまう物語は数多く語られてきたが　多くは男性が語る物語だ
男性が死んでしまうものは神話的である
古くはオシリスから『トリスタンとイズー物語』至り――神話的に変奏されてきた
これらは『ロミオとジュリエット』も含めていいと思うが　本来マッチな物語だったが
映画『タイタニック』のように女々しくなってしまった
女性が死んでしまうものには　語り手の同伴者が死んでしまうのだから
寂しさがつきまとう
この愛惜はやがて昇華され　全てを許す慈しみと優しさのうちに立ち尽くすばかりだ


また　女性が語るものは『源氏物語』や『オルフェウスの窓』のように
要素が多すぎて純愛の範囲を超えてしまう


確かに『愛と死を見つめて』のようなもの反復でしかないだろう
また二人の女性の描き方にも一言とあっていいと思うが　趣旨ではない
『愛と死を見つめて』には時代の雰囲気として　堀辰雄の『風立ちぬ』があり　
そこにはアンドレ・ジイドの『狭き門』があり　それを考察しようとする
ポール・ヴァレリーの知的透明性があつた
『世界の中心で愛を叫ぶ』は先の昇華は　既に語り始める以前から完了していると思われ
福永武彦が堀辰雄から受け取った&quot;孤独&quot;というような普遍的循環は見られない
また　少なくとも『愛と死を見つめて』や『知恵子抄』はリアルなものであった
ぼくはこれを竹細工で作られた鳥篭の中のつがいの小鳥たちを見ているように感じ取った
&quot;助けてください&quot;という連呼に唯一心を揺さぶられが　ぼくはこれを醜悪だと思う
また&quot;孤独&quot;も醜悪だと思う


これらを了解済みとして
&quot;セカチュー&quot;=&quot;自己中&quot;と呼ぶのだと言う気がしてならないは　ぼくだけだろうか
語り手はそれをも了解済みとして語り　それを受け取る完全な共犯関係がある
彼らは『世界の中心で愛を叫ぶ』を&quot;セカチュー&quot;として暴露している
憧れと侮蔑からの憤り
世界は自己と他者あるいは既知と未知等々二重性を帯びて乖離している
それでも明日という未知に　生きていかなければならないのなら　
為さざるは勇無きなり　為して成らざるは智無く信無きなり　（幸田露伴）
風立ちぬ　いざ生きめやも　（堀辰雄）
と循環するべきだ


2005年1月24日


小島祐二 


 


      
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   <title>第14回　引き続き&quot;セカチュー&quot;と自己中にて――自己中</title>
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   <published>2004-12-23T04:31:35Z</published>
   <updated>2008-03-04T04:32:18Z</updated>
   
   <summary>自己中心性とは　いわゆる我侭や利己的所作などその気質をいうのではなく　もう少し分...</summary>
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      自己中心性とは　いわゆる我侭や利己的所作などその気質をいうのではなく　もう少し分析学的に
固有名詞の関係を作ろうとせず　最初から自己との分有関係の網目の中で事象を捉えようとしかしない
あるいは事象を既知の類似的範列に置こうとする性向　　例えば箱庭を再現しようとしても
実際に電信柱は右にあるが自分からは左にあれば左に置いてしまう眼差し　　また初めて会った人に
知人の誰かに似ている（出身地或は他の階位的共通性／血液型等身体的心身的共通性）と思う事や
その周辺ある事柄や人物についての知識に妥当性を与えてしまう性向を言っているのであり　
そこから生じる言動や行動が単に傍迷惑なものなのか　一時的に自分でも抑え難たく著しく情緒を
乱すものなのか　日常生活を営むことが困難な病的なのものか　理性／社会的道義性や政治的判断で
押さえ込めるものなのか　それはその強度の問題だ
分有関係に置くにせよ類似的範列とその範疇に置くにせよ　自己との鏡像を創出する
しかし　ここに立ち現れるものを真とするなら　これは模造か捏造に過ぎない
普通　人はこの一方的に内在さらしめる関係のあり方を共犯関係に置かれるように感じて不快なものだし
どのように好意的に語られようとももともと侵犯を受けている方は鼻白んでしまう


もう少し言えば
このような鏡像を多く持つことは事象の審判材料として情報の量と質においてある程度有効で　
かつ知的作業ではあり　またその緊張関係において絶妙なバランスを保っている
――ぼくたちはそのように日常を過ごしている――がこれは&quot;砂の上の舗石&quot;のようにバランスは
バランスでしかない――誰もが先刻承知なことだ
どのような知的な仮面を装っているにしても　凡そ思惟行為とかいうものはそのようなものだ　
めくるめく鏡像のこちら側に何かあるとすればそれは空洞＝&quot;ゆらぎ&quot;のようなものでしかない
そしてことある毎に更新される鏡像達のバランスは　エントロピーの波にいつまでも耐えられるものでは
なし　将来の位置を正確に予測することなど不可能なことだ
出来うる事と言えばせいぜいそのバランス間の強度的変化を数量化することぐらいだ
そしてめくるめく鏡像は環境として自己を再構築していく
それを疎外と呼ぼうが　また普遍性を見出そうが　個別性を見出そうが　表裏一体で分割できものではなく
普遍であれ個別であれ階位的に複数形を見出して　文化としてそのイデオロギーの正当性を主張する
まさにこの点においてサミュエル・P. ハンチントンの&quot;文明の衝突&quot;的論理性は否定されるべきであり
グローバリゼーションとは　15世紀の近代国家の形成期にローカルとしては成熟して衰退へと向かう
ローカルが経済＝資本主義の成立をよりどころにナショナルを主張したのと同じように　リージョナルが
成熟と衰退を前にしてグローバルをめくるめく鏡像を共犯関係において主張しているようなものだ


長くなった
興味のある方は
『動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評 』 集英社新書　東浩紀　笠井潔 (共著)
『自由を考える―9・11以降の現代思想』 NHKブックス　東浩紀 大澤真幸 (共著)
は対談なので読みやすくそれぞれ二人の論点がかみ合わないことが鮮明に問題性を浮き彫りにしている
ぼくは&quot;動物化する&quot;ということには人間中心主義的な匂いがして好きじゃない
動物化していると言うよりは　かつてＧ・ドゥルーズが語ったように器官（オルガン）として
機械化しているとした方が正しいと思う
笠井潔と大澤真幸を比較していくもスリリングで面白いし　
二人が東浩紀に&quot;ここんとこもう少し解ってくんないかなぁ～&quot;的語り口が微笑ましくていい
少しそれるけれども　対談は親密であっても対置していても緊張感が漂っていてレアで楽しい
柄谷行人と寺山修の対談などはぜひ読んで欲しいものの一つだ　最近著作集が出た
また東浩紀のいうところの&quot;動物化&quot;という論理性の対極にあるのが　
中沢新一の&quot;ソヴァージュ&quot;だと思う
さらにレヴィ・ストロースまで遡るべきだと思うのだけれども　本来の趣旨とは離れすぎてしまったので
ここではジャック・デリダとレヴィ・ストロースにはこのような対立はないということに留めておきたい


2004年12月23日

小島祐二 


 


　 


      
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